CAISYの没革

1955年

西川利通氏の製糖工場建設計画のもと,16家族84名と単身3名の合計87名が,サンフアンに入植 (0次移住者と呼ばれる).
原始林を切り開き,焼畑農業で陸稲の栽培が始まる.

1956年

ボリビア国と日本国の移住協定が調印される.

1957年

移住協定による第1次移住者25家族159名が到着.
原始林の中で孤立した移住者が,一日も早く定着の基礎を固めるべく,移住地の行政義務を含んだ「サンフアン農業協同組合」を48名の組合員により設立.

1958~1965年

移住者の入植は続けられたが,連年の天候不調に伴う極端な不作で,劣悪な生活環境と経済的苦境により移住者の転出・本邦帰国者が続出.

移住地内の一部の地区で養鶏組合が発足.

精米所操業開始,陸稲販売3千トンに達し国内有数の米の産地となる.

米の生産過剰と価格下落により,農協の運営が困難になり一時的に分裂.農協から行政部門が文離し,「サンフアン自治体」が発足する.

農協の再建を試みるも,筆行部が短期間に入れ替わるという混乱の時代.

1966年

機械化造成を開始,米と大豆の機械化農業と養鶏を中心とした営農形態が始まり,経営の多角化というサンフアン特有の方向性をみいだした.

1971年

法人格を取得.名称を「サンフアン農牧総合協同組合」に改称.

1973年

養鶏用飼料向上の操業開始.

1974~1980年

搾油機・大型乾燥機・貯蔵サイロなど,設備投資を行い加工事業の推進をはかる.

農協青年部発足 (1976年).

サンタクルス支所,ラパス販売所を建設し,運営の合理化と販売事業の強化を行う.

1981~1986年

ハイパーインフレ (通貨暴落)がおこるも,「第一次資本力強化計画」に基づいた増資により,鶏病予防センターや種子選別工場などの施設建設を行う.

組合員の採卵鶏飼育羽数の増加と,冬作大豆の定着により,飼料工場及び搾油工場関係部門の新設・増設が行われ加工化の体制が整う.

1985年

JICA直営試験農業が農協に移管される.

1987~1997年

農協創立30周年記念式典を挙行 (1987年).

マカダミア栽培推進にともなう苗木生産を開始.

大豆栽培技術への貢献を認められ,サンタクルス州大豆生産者協会 (ANAPO) より「黄金の粒賞」を受賞 (1992年).

養鶏飼育改善のためケージシステムを導入,孵化場・種鶏場建設,オス雛と飼料工場残渣物処理のため養豚場の運営を開始する.

組合員の営農拡大と生産量の増大にともない,米の共同販売事業を再開(92年),第二精米所の購入,殻物の感想貯蔵施設の大型化,サンタクルス及びラパス倉庫施設,管理部門のシステム化など農協施設・機械などの設備投資を行う.

鶏卵取扱数量が国内総生産の三分の一を占め,ペルーの輸出も開始する.

農協創立40周年記念式典を挙行 (97年).

1998~2006年

第一回「全国米の日」開催 (99年).

ボリビア日本人移住者100周年記念式典挙行 (99年).技術協力推進及び両国経済発展に寄与してきた功績が認められ日本国外務大臣表彰を受賞する.

「医療共済補償制度」「医療保険年金制度」の施行により共済事業の充実を図る.

マカダミア加工工場稼動により,マカダミアナッツの商品化,北米への輸出が始まる.

古紙再利用の鶏卵輸送用マプレ工場を新設.

サンフアン移住地入植50周年記念式典を挙行(2005年).

農地拡張期の終止,旧耕地の水田化,有畜化,養鶏,果樹,マカダミアナッツなど,農地の適正利用や保全に努める農業を目標とする.